2014年10月8日水曜日

レセップス(1805~1894)



スエズ運河とパナマ運河、2つの運河を手がけるも
まったく違う結末に…

1805 生まれる
1825 リスボンで外交官デビュー
1834 カイロ領事に就任
1849 ローマでの外交交渉に失敗、外交官を辞職する
1854 エジプト総督のサイード・パシャがレセップスを呼びよせる
1859 スエズ運河着工
1869 スエズ運河完成
1880 パナマ運河着工
1892 パナマ疑獄

◇外交官としてのデビュー
外交官の息子として生まれたレセップス。リスボン・チュニス・アレキサンドリア・カイロ・マドリードと順調に外交官としてのキャリアを積みます。この中でもカイロのエジプト総督の息子、サイード・パシャの家庭教師となったことが、彼のキャリアにとってもっとも大きな出来事でした。

◇スエズ運河の建設に着手
しかし、ローマでの任務に失敗し、外交官を辞してからは、妻と子にも先立たれ、なにかと落ち込むこともありました。そうした失意にあったレセップスが再び立ち上がったきっかけはエジプト総督に、かつての教え子であったサイード・パシャがエジプト総督に就任したことでした。カイロに向かったレセップスはかねてから構想していた運河の建設をサイードに提案したのです。

◇スエズ運河の完成
フランスとエジプトの共同事業のような形になったスエズ運河の工事ですが、道のりは楽ではありませんでした。フランスのライバルイギリスと、エジプトの宗主国トルコが妨害工作を盛んに行ったからです。そこでレセップスは今までの外交官としてのキャリアを十分に生かし、調整に調整を重ねてなんとか完成に持ち込みます。

◇パナマ運河の失敗


スエズ運河は瞬く間にヨーロッパ諸国に利益をもたらし、天才建築家・外交官・実業家としてレセップスは一躍時の人となります。レセップスの次なる野望はパナマ運河です。しかし、パナマ運河はスエズ運河をはるかに上回る難工事となりました。スエズ運河は10年で完成したのですが、10年たってもパナマ運河は開通のめどはたちません。資金繰りが悪化したため、打ち切りの雰囲気が漂います。レセップスは工事の継続を求め、くじつきの債権も発行しましたが、工事継続のために国会議員に賄賂を贈ったこと、債権は詐欺に過ぎないことなどを指摘されます。この疑獄事件によりすっかり名声が下がったレセップス、最高法廷では無罪判決を勝ち取りますが、気力を失ったレセップスは失意のうちに亡くなりました。

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