2014年10月8日水曜日

煬帝(569~618)



たとえ「暴君」と言われようとも
やらなければならない仕事がそこにある

569 生まれる
604 隋の皇帝に即位
    大運河を建設
612 高句麗遠征を開始
618 殺害される

◇「暴君」煬帝の登場
煬帝、と書いて「ようだい」と読みます。この「煬」という字にはあまり見覚えがないかもしれませんが、「陽」の字と表裏の関係にあり、おなじ「明るい・熱い」ニュアンスの「陽」がGOODの意味なら、「煬」はBAD、つまり、焼き尽くす、ギラギラした、転じて厳しい、暴君という意味を持ちます。この字は唐王朝によって贈られた名、つまり隋を倒した方からの呼び名なので、このような悪名になったということもあります。

◇大運河の建設
この悪名の主な原因は2つあります。ひとつはこの「大運河の建設」です。それまでの中国人の夢のひとつに「黄河と長江がつながればいいな」ということがありました。2つの川を直接つなぐことができれば、それは中国の大動脈になるはずです。しかし、それは無理なこと、絵空事だと誰もが思っていたわけです。そこに煬帝の登場です。100万人の民衆を動員し、始皇帝ですらやらなかった子供や女性たちをも容赦なく働かせたことにはなっていましたが、煬帝の心の中には、たとえ暴君と言われようとも、これは必ずやり遂げなければならないという強い意志があったはずです。結果的にこの大運河は現在に至っても中国の大動脈として機能し、はかり知れないメリットをもたらしたのです。完成までこぎつけたのはそれなりに煬帝にも人望があったのでしょう。

◇やっぱり暴君?
しかし、もうひとつの悪名の原因であった高句麗遠征についてはやはり評価を下げなければなりません。3度実施された高句麗遠征はいずれも振るわず、国庫に負担を与えて民衆の反感を買います。このことが各地の反乱を呼んだのですが、こうした反乱の中、煬帝は次第に現実逃避をして、酒色にふけります。忠告する家臣を殺すなど、やはり晩年は暴君であると言えます。

◇歴史の「必要悪」
ラッキーなのは次の王朝、唐です。大運河はもう完成して、後は利用するばかりだし、高句麗も十分弱体化をしてくれているので、あとは滅ぼすだけになり、高句麗はすぐに滅亡します。唐にとっては煬帝を悪者にすることで、300年近い長期政権を運営することができたのです。中国史にとっては「必要悪」をかぶってくれた人物と言えます。

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