2014年11月3日月曜日

クレオパトラ(前69~前30)




「絶世の美女」のメンタリティは
「中小企業の女社長」

前69 プトレマイオス朝のファラオの子として生まれる
前51 父の死去、弟のプトレマイオス13世と結婚し、共同の王となる
     プトレマイオス13世と対立
前48 プトレマイオス13世派のクーデター、アレクサンドリアを追われる
     カエサルの愛人となる→カエサルはプトレマイオス13世を攻撃
前44 カエサルの死
前42 アントニウスと同盟
前31 アクティウムの海戦でオクタウィアヌスに敗北
前30 自殺する

◇今回は世界三大美女として知られるクレオパトラです。世界三大美女は「クレオパトラ・楊貴妃・小野小町」と言われますが、こう言っているのはおそらく日本だけでしょう。フランス人やアメリカ人が小野小町を知っているとは思えないですし。しかし、クレオパトラはまさしく「美人」だと、全世界の人が知っていることでしょう。本当に美人だったかは、「そうでもない」という歴史家もいて、肖像画も残されていないことから定かではありませんが、頭がよく、会話が巧みで、優雅な雰囲気を持つ、なんというか男にとっては「好きになってしまう」女性であったようです。

◇彼女が生まれたのはエジプトのプトレマイオス朝。かのアレクサンドリア大王の後継国家の一つで、首都のアレクサンドリアは世界の中心と言われるまでに繁栄をしていたものでした。しかし、クレオパトラにとってはそれは200年も前の話で、今は拡大するローマに対して、どのように国家を存続させていかねばならないかを考えなければならない、まさに「中小企業の社長」のようなメンタリティなのです。エジプトお決まりの兄弟婚で結婚した共同統治者のプトレマイオス13世はローマとの敵対に、そしてクレオパトラはローマとの同盟に活路を求めたのです。そうした意見の違いから、プトレマイオス13世派のクーデターにより、クレオパトラは一時アレクサンドリアを追われます。

◇ローマとの同盟を図るクレオパトラが接近したのはカエサルです。ライバルのポンペイウスを追い、アレクサンドリアに入ってきたカエサルに対して、クレオパトラは接近したいのですが、アレクサンドリアはプトレマイオス13世派の町になっていて、普通の方法では容易に接近することができません。そこで一計を案じたクレオパトラは、自らを絨毯にくるませ、贈り物としてカエサルに届けさせ、カエサルが絨毯の包みをほどくと中からクレオパトラが…という方法で接近したといわれています。クレオパトラはカエサルの愛人となり、そのままプトレマイオス13世を攻撃してもらい、クレオパトラはエジプトの統治者として返り咲きます。


◇強力なカエサルの後ろ盾でなんとか「プトレマイオス朝」の屋号を守ったクレオパトラですが、カエサルが暗殺されると再び後ろ盾を求めます。その後ろ盾がアントニウスです。ローマの三頭政治の一角であったアントニウスですが、クレオパトラの魅力にすっかりやられてしまってエジプトに入りびたりになり、ローマを見捨てたかのようにふるまったそうです。ローマの人心はカエサルの後継者、オクタウィアヌスに集中します。アントニウスはクレオパトラと共同軍を仕立ててオクタウィアヌスとアクティウムの海戦で戦いますが、敗北します。アントニウスは自殺、クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒み服毒自殺(一説にはコブラに自らをかませて自殺)をしました。オクタウィアヌスはエジプトをローマに編入、皇帝直轄地とし、クレオパトラがなんとか守ろうとした「プトレマイオス朝」の屋号はここに消えてしまうのでした。

2014年11月2日日曜日

ビスマルク(1815~1898)




 時に大胆に、時に繊細に、
「ドイツ帝国」という作品を作り上げた芸術家


ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938)





「トルコの父」の鋭い眼光は
戦勝国をもうならせた

1881 オスマン帝国に生まれる
1919 第一次大戦終結…オスマン帝国敗北
1920 セーヴル条約の締結
1919~1922 イタリア=トルコ戦争
1923 ローザンヌ条約
1923 ムスタファ大統領就任
1925 女性解放
1928 文字改革



◇ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、教科書では「ムスタファ・ケマル」と表記される場合もありますが、「ケマル・アタテュルク」とも表記される場合もあります。このうち、「ケマル」とは「完全な」を意味するあだ名で、日本で言うと中学生ぐらいのときに数学の先生に名づけられたそうです。また、「アタテュルク」とは「トルコの父」という姓で、晩年、といってもまだ40代後半ですが、その業績に対して与えられたあだ名のようなものです。これをつないだムスタファ・ケマル・アタテュルクは「完全な・トルコの父・ムスタファ」という、たいそうな名前になりますね。また、肖像画や写真にはただ者ではない目力で、この人ににらまれたら何でもOKしちゃいそうな人です。

◇ムスタファの経歴は38歳のころ終わった第一次世界大戦まではほとんどオスマン帝国の軍人としてのものでした。第一次大戦ではドイツ・オーストリアと並び、敗者側に立ったオスマン帝国ですが、彼はイギリス軍をはじめとする連合軍の侵攻をなんども食い止め、英雄としての名声を得ていきます。

◇敗北したオスマン帝国、もちろんごっそりと領地を奪われる…のですが、ムスタファたちはただでは領地を渡さない、と抵抗運動を組織します。連合国は首都イスタンブールを占領し、オスマン帝国の領地をごっそり減らす「セーヴル条約」を結びます。ムスタファたちは連合国に占領されたイスタンブールを脱出、アンカラに「トルコ大国民議会」を結成し新たな政府としての声をあげます。一時的にトルコは、イスタンブールのオスマン帝国政府とトルコ大国民議会の二重状態になります。


◇一方、トルコの敗戦をチャンスだと考えた国があります。戦勝国側のギリシアです。実はギリシアとトルコは宿敵といってもいい間柄で、トルコの敗戦につけ込んで領地を回復しようとしていたのでした。ムスタファは自ら軍を率いてギリシア軍を破ります。連合国はその一員であったギリシアを守らなければいけない立場なので、ローザンヌ条約を結び、トルコの領土の拡大を認めさせます。そして圧倒的な国民の支持のもと、オスマン帝国の「スルタン」の地位を奪って共和制を宣言します。これを「トルコ革命」と言っています。その後、文字革命や女性の地位の向上など、トルコの近代化に努めました。まさに「トルコの父」です。

2014年10月9日木曜日

クローヴィス(466~511)

 

“初のフランス王”の成功のカギは
グローバルスタンダードへの対応

466 生まれる
496 アレマン人に勝利
498 カトリック教徒として洗礼をうける
500 ヴィエンヌ侵入
507 西ゴート族に勝利
511 死亡

◇初のフランス王
このクローヴィスという人物、「フランク王国」の初代の王なのですが、この「フランク」は後世の「フランス」の言葉のもとになることから、クローヴィスは「初のフランス王」と言えます。このクローヴィスが登場した当時のヨーロッパはローマ帝国が倒れた後の混乱期でした。

◇「グローバルスタンダード」への対応
そのヨーロッパにやってきたのがゲルマン人の一派、フランク族でした。もとはローマ帝国だった土地に侵入し、そこに建国することとなりました。しかし、ここには一つの難題があったのです。それは、ローマ帝国内で信じられていたキリスト教の宗派は「カトリック」で、フランク族たちが信仰していたキリスト教は「アリウス派」で、ローマ帝国内では異端とされていました。そこでクローヴィスはある決断をします。今までの信仰を捨て、カトリックとして洗礼をうけるのです。同じフランク族の仲間たちにとっては裏切りにも等しい行為ですが、「グローバルスタンダード」にいち早く対応した、というわけです。

◇領地の拡大
この宗教政策のおかげでもとのローマ帝国の国民もフランク王国の支配をスムーズに受け入れることができました。国内の地盤を固めたおかげでクローヴィスはスムーズに領地の拡大ができ、現在のフランスとほぼ同じ規模の国を作ります。そうした意味でもクローヴィスは「初のフランス王」といえます。

◇ソワソンの壺
クローヴィスにまつわる逸話に「ソワソンの壺」があります。ソワソンという町を攻略したクローヴィスは、自分の軍の兵士がその町の司教が儀式に使うある壺を戦利品として獲得したことを知ります。儀式に使う大事な壺だから返すように説得したのですが、兵士はこの壺は俺のものだと言って聞きません。クローヴィスはそれ以上の説得はしませんでした。しかし、一年後のある日、軍を招集したときに、その兵士を見ると、槍の先がさび付いていました。兵士は処刑されることとなり、クローヴィスからは「ソワソンの壺を忘れるな!」という言葉がかけられたそうです。欲に目がくらむとだめだという教訓でしょうか、それとも目をつけられると些細なことでも罰せられてしまうということでしょうか。何かの教訓なのだと思います。

2014年10月8日水曜日

煬帝(569~618)



たとえ「暴君」と言われようとも
やらなければならない仕事がそこにある

569 生まれる
604 隋の皇帝に即位
    大運河を建設
612 高句麗遠征を開始
618 殺害される

◇「暴君」煬帝の登場
煬帝、と書いて「ようだい」と読みます。この「煬」という字にはあまり見覚えがないかもしれませんが、「陽」の字と表裏の関係にあり、おなじ「明るい・熱い」ニュアンスの「陽」がGOODの意味なら、「煬」はBAD、つまり、焼き尽くす、ギラギラした、転じて厳しい、暴君という意味を持ちます。この字は唐王朝によって贈られた名、つまり隋を倒した方からの呼び名なので、このような悪名になったということもあります。

◇大運河の建設
この悪名の主な原因は2つあります。ひとつはこの「大運河の建設」です。それまでの中国人の夢のひとつに「黄河と長江がつながればいいな」ということがありました。2つの川を直接つなぐことができれば、それは中国の大動脈になるはずです。しかし、それは無理なこと、絵空事だと誰もが思っていたわけです。そこに煬帝の登場です。100万人の民衆を動員し、始皇帝ですらやらなかった子供や女性たちをも容赦なく働かせたことにはなっていましたが、煬帝の心の中には、たとえ暴君と言われようとも、これは必ずやり遂げなければならないという強い意志があったはずです。結果的にこの大運河は現在に至っても中国の大動脈として機能し、はかり知れないメリットをもたらしたのです。完成までこぎつけたのはそれなりに煬帝にも人望があったのでしょう。

◇やっぱり暴君?
しかし、もうひとつの悪名の原因であった高句麗遠征についてはやはり評価を下げなければなりません。3度実施された高句麗遠征はいずれも振るわず、国庫に負担を与えて民衆の反感を買います。このことが各地の反乱を呼んだのですが、こうした反乱の中、煬帝は次第に現実逃避をして、酒色にふけります。忠告する家臣を殺すなど、やはり晩年は暴君であると言えます。

◇歴史の「必要悪」
ラッキーなのは次の王朝、唐です。大運河はもう完成して、後は利用するばかりだし、高句麗も十分弱体化をしてくれているので、あとは滅ぼすだけになり、高句麗はすぐに滅亡します。唐にとっては煬帝を悪者にすることで、300年近い長期政権を運営することができたのです。中国史にとっては「必要悪」をかぶってくれた人物と言えます。

ルイ14世(1638~1715)

フランス絶対主義最盛期の王
ギネスブックにも載っています

1638 生まれる(父:ルイ13世)
1643 フランス王に即位
1648 フロンドの乱
1661 親政の開始
    ヴェルサイユ宮殿の造営開始
1701 スペイン継承戦争
1715 病死

◇5歳でフランス王に
父ルイ13世が41歳で亡くなり、ルイ14世は5歳に満たずに即位することになりました。そのため、後世「太陽王」「朕は国家なり」などの言葉で飾られるルイ14世の王としての出だしは不安定なものでした。幼少の王にかわって政治を行ったのはマザランという人物。この時にフロンドの乱という貴族の反乱がおき、ルイ14世も一時はパリを逃れ、フランス国内を転々としました。しかし、このフロンドの乱のおかげで、王権に対して異をとなえる貴族勢力が弱まり、成人後のルイ14世は絶大な権力を持つことができたのです。

◇「太陽王」ルイ14世
親政をはじめたルイ14世の権力はまさに絶頂。「王権神授説」をとなえ、自らを「神の代理人」としてフランスに君臨しました。このとき、ヴェルサイユ宮殿の建造もはじめています。ヨーロッパ最大の常備軍をもち、領土拡大こそが国王の役目と、数々の戦争をしかけていきます。「南ネーデルラント継承戦争」「オランダ侵略戦争」「ファルツ継承戦争」など、周辺の国の世代交代や空白の領土ができたら積極的に戦争をしかけますが、どうも戦争はうまくありません。若干の領土はもぎ取るにいたるのですが、あまり芳しくない結果が続きます。

◇スペイン継承戦争
そうした侵略戦争の代表がスペイン継承戦争です。孫のフィリップをスペイン王にねじ込もうとしたところ、イギリス・オーストリア・プロイセン・オランダなどから袋叩きにあいます。周囲の国にとってはフランスがスペインを併合することなど、あってはならないからです。その結果、なんとか孫のフィリップをスペイン王にすることには成功するのですが、国としての体力は底をつきかけていました。そこで登場したのが外交上手のイギリスです。ヘトヘトのフランスに脅しをかけ、まんまと植民地をせしめるのです。

◇「最長の在位期間」を持つレコードホルダー
戦争好きの戦争下手、贅沢のしすぎと、後世のルイ14世の評価はあまり高いものではありません。しかし、海外旅行でパリに行くと、なんといってもヴェルサイユ宮殿が我々の目を楽しませてくれますし、太陽王ルイ14世の像に出くわすことも多くあります。「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネスブックにも載り、フランスの栄光の時代を築いた、フランス国民にとっての「我らが王」であることは間違いありません。



フリードリヒ2世(1712~1786)


何でもできる啓蒙専制君主
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1712 生まれる(父:フリードリヒ=ヴィルヘルム1世)
1730 逃亡事件により幽閉される
1740 プロイセン王として即位
    オーストリア継承戦争勃発
1745 オーストリア継承戦争に勝利
    サン=スーシ宮殿建造
1756 七年戦争
1772 ポーランド分割

◇父との確執
「大王」の名で知られるフリードリヒ2世、後世、戦えば必ず勝つ軍事の天才となるのですが、若いときのフリードリヒ2世は文学青年、音楽青年でした。特に趣味としたのはフルート。演奏会を開くほどの腕前で、フリードリヒ2世作曲のフルート協奏曲が今でもアマゾンで購入できるほど。しかし、父は「軍隊王」というニックネームをもらった軍人気質のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世。そんな「軟弱者」の息子に我慢なりません。音楽や文学に熱をあげるフリードリヒを見ると怒り狂い、杖で打ちすえるなどの暴力を加え、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、ひどい仕打ちをしたのでした。

◇逃亡事件
フリードリヒ18歳の時、この境遇に耐え切れず、国外逃亡を図るのですが、計画が事前に漏れ、その日のうちに連れ戻されるのです。とある要塞にフリードリヒは幽閉されてしまいます。皇太子であるフリードリヒでこの罰をうけたのですから、逃亡を手引きした家臣の一人はフリードリヒの目の前で処刑されてしまいます。

◇即位とオーストリア継承戦争
その後は父の意に沿い、軍務をこなし実績を積みます。そして父の死により即位したのですが、啓蒙思想家たちをブレーンに招き、「啓蒙専制君主」の一人として、さまざまな改革を行います。隣国オーストリアでは先代の王が亡くなり、女帝マリア=テレジアが即位したことから、オーストリアに侵攻し、オーストリア継承戦争がはじまります。勝利したものの、オーストリアは再び七年戦争を挑んできたことから、フリードリヒ2世は戦争に明け暮れることとなります。オーストリア・ロシア・フランスなどの諸国と戦い、自身の上着も撃ち抜かれて自殺を覚悟するほどの苦戦でしたが、なんとか勝利をおさめました。縁談もあったとされるマリア=テレジアは生涯のライバルでした。

◇サン=スーシ宮殿と音楽
そんなフリードリヒ2世の癒しの場所はサン=スーシ宮殿。10部屋ほどの平屋の宮殿ですが、その中央には「音楽室」があり、ここで音楽と社交のくつろいだ時間を過ごしました。作曲家フリードリヒとしての作品数は膨大で、フルートソナタだけでも121曲も作曲をしています。フリードリヒ2世はプロイセンを強大化させ、戦えば勝ち、芸術的才能にもあふれる、「なんでもできる王」でした。